年をとると、誰もが悩む「物忘れ」。
けれど、健康のためには適度に忘れるくらいがちょうど良いとしたならどうでしょう?
なんだか少しほっとしませんか?
今回は、そんな記憶と忘却についてのお話です。
20世紀前半に、ソロモン・ヴェニアミノヴィチ・シェレシェフスキーと言う名の「記憶の天才」として知られたラトビア出身のユダヤ人がいました。
●ソロモン・ヴェニアミノヴィチ・シェレシェフスキー
彼はノートもメモも一切取ることなく、一字一句を正確に記憶することができ、いつでも正確に思い出すことができました。また、一度覚えたことは決して忘れず、なんと0歳からの記憶を死ぬまで保持していたと言われています。
また彼は、音に味覚や色や線・飛沫のような単純な形を感じたり、文字・数字に色や明暗・質感・形などを感じたりすることができました。これって今で言う「共感覚」の持ち主ということですね。
ロシアの神経心理学者アレキサンダー・ルリアがシェレシェフスキーについて詳細な研究を行ったところ、シェレシェフスキーは単語や数字、さらにはそれが無意味な音節であっても、それらの長いリストを聴いて、聴いている間にそれぞれの項目を心に思い描くために数秒間の時間があれば、間違えずに全リストを復唱することができました。
ある時、一連の文字と数字を、30個位の要素を含む数学の公式として与えたところ、彼はその場でその公式を正しく再現し、それから15年後経って再び質問しても正確にそれを再現したというのです。
シェレシェフスキーの記憶能力の特徴は、記憶する項目に対して強力な「心的イメージ」を浮かべ、それを利用することによって発揮されることを、ルリアは発見しました。
例えば、言葉が視覚的印象を呼び起こしたり、味覚や触覚を生じさせ、それらの感覚すべてを使って記憶と結びつけるというものです。つまりは、共感覚を活用して記憶しているというわけです。
しかし、そんな彼の記憶力にも弱点がありました。
知覚した事柄の印象の1つ1つがとても鮮明で豊かであったため、事柄同士の共通点を見出すことや、一般的な概念を把握して全体像をイメージすることは大変苦手だったということです。
さらに深刻なことに、年々増えていく膨大な記憶の量に、シェレシェフスキー自身が徐々に混乱をきたしてくるようになったのです。記憶するときには各単語にイメージがあり、思い出すときは単語のイメージを引っ張り出すのですが、やがてそれぞれが互いに衝突し始めるようになりました。
結果として脳内はカオスな状態に陥り、最後には決断を下すことさえ出来なくなり、とにかく忘れようと必死の努力をしたそうです。
その後の研究で、「忘却」には精神の安定を図る大切な役割があることが分かってきました。
脳というのは、神経細胞のかたまりです。神経細胞は脳内におよそ千億個もあると言われています。私たちがふだん、話したり、記憶したり、泣いたり、運動したりという活動は、すべて脳の神経ネットワークによって実現されています。
神経細胞の数は膨大です。しかし、膨大とはいえ、聴覚や視覚など五感から入ってくる情報は、多くの記憶領域を消費してしまいます。ある研究によると、入ってくる五感情報をすべて記憶しようとすれば、たったの5分で限界になるそうです。
前述した記憶の天才・シェレシェフスキーは、その五感情報をフル活用して人も驚く記憶力を誇っていたわけですが、晩年はその無理に彼自身が悩まされる結果となりました。
脳は生命に関わる最も重要な情報は長期的に記憶し、やや重要な情報は短期的に記憶して、全く重要ではない情報は忘れるように分類します。記憶量に限界を持つ脳だからこそ、本当に必要なことだけ記憶し、重要でないものはすぐに忘れるようにできているのです。
実によくできたシステムだと思いませんか?
この忘却のおかげで、私たち人間は、つらい過去があっても忘れることができ、気持ちを未来に向けることができるのです。
20世紀の天才、アルベルト・アインシュタインがこんな名言を残しています。
「もし本に書かれていることなら、記憶する必要はない」
現代に生きる私たちは、インターネットの普及もあって、検索すれば多くの情報が閲覧できる恵まれた環境にあり、覚えていないと不便なことは少なくなっています。
「忘却」は健康と幸せに必要な要素なので、物覚えが悪いなんて人は、これからはむしろポジティブにとらえて良いのかもしれません。(無論、認知症などは別ですが)
記憶することよりも、必要ないことはさっさと忘れて、新しく何かを創っていくことのほうがずっとずっと大切です。最新の脳科学の研究結果は、そうしたメッセージをダイレクトに私たちに伝えてくれています。
★古代ギリシャ時代、知識人の必須のツールであった「記憶術」。ナショナルジオグラフィックの記者である著者が、最先端の脳科学や一流のプロから技術習得の秘訣を学び、全米記憶力選手権で優勝するまでの1年を描いた話題作。これは実に面白い!!
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